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PROFILE 町亞聖(まちあせい)

小学生の頃からアナウンサーに憧れ、1995年に日本テレビにアナウンサーとして入社。その後、活躍の場を報道局に移し、報道キャスター、厚生労働省担当記者としてがん医療、医療事故、難病などの医療問題や介護問題などを取材。また、北京パラリンピックでは水泳メダリストの成田真由美選手を密着取材。“生涯現役アナウンサー”でいるために2011年にフリーに転身。脳障害のため車椅子の生活を送っていた母と過ごした10年の日々、そして母と父をがんで亡くした経験をまとめた著書「十年介護」を小学館文庫から出版。医療と介護を生涯のテーマに取材、啓発活動を続ける。
町 亞聖 公式ブログ(http://ameblo.jp/machi-asei/

<出演番組>

☆TOKYO MX 毎週金曜日11時15分~12時10分「週末めとろポリシャン!」MC/☆文化放送 毎週水曜日13時~15時30分「大竹まことのゴールデンラジオ!」水曜レギュラー/☆ニッポン放送 毎週日曜日18時25分~18時54分★HPで視聴可能「ウィークエンドケアタイム『ひだまりハウス』~うつ病・認知症を語ろう~」

夢にも思っていなかった姉妹旅行

ある年の夏休み、私は6つ離れた妹と沖縄旅行の計画を立てていました。
“姉妹2人での旅行”、それはどこにでもある当たり前の風景に思われるかもしれません。ですが数年前まではそんな時間が持てるとは私達姉妹は夢にも思っていませんでした。
というもの私が18歳、妹が12歳の時に母がくも膜下出血で倒れ右半身麻痺と言語障害という重い後遺症のために車椅子の生活を送っていたからです。
母が倒れた時、まだ妹は小学6年生で赤いランドセルを背負っていました。本当に突然の出来事で高校生だった私は幼い弟妹の母親代わりとして家の切り盛りをすることに。
そして、その妹が高校生になってからは就職した私と交代で家族のご飯作りをしてくれていましたので2人そろって長い時間、家を空けることはできなかったのです。
そんな生活は母が末期がんで49歳という若さでこの世を去るまで10年間続きました。ですが私達姉妹は自分達の境遇を恨んだことはありません。身体と言葉が不自由ではありましたが母はいつもひまわりのような温かい笑顔で私達を見守り、まるで太陽のように家族を照らしてくれていたのです。
家族全員が母の車椅子を押して過ごす日々がいつまでも続いて欲しいと願っていました。母の介護を経験した10代20代は家族といるよりも友人といる方が楽しいという時期だと思います。
ですが私達は母のおかげで普通の家族よりも濃密な時間を過ごすことができました。私にとって妹は娘のような存在でもあり、また同時に同じ悲しみや苦しみを共有した同志なのです。

一番の贅沢…

母のいない生活に少しずつ慣れてはきたものの心にはまだぽっかりと穴が開いていた私達。
「どこか行きたいね」と自然と思いつき西表島行きを決めたのでした。真っ青な沖縄の海と空は大きく腕を広げて私達二人を迎えてくれました。穏やかな気候はその土地に住む人の心までも穏やかにするのかもしれません。
心和ませてくれる沖縄の人の語り口やどこか懐かしい三線の音色、そしてゆったりと流れる時間は悲しみを優しく包み込んでくれました。
8月生まれということもあり私は燦々と降り注ぐ夏の日差しが大好きでアナウンサーという仕事をしていたのにも関わらず、そして良い年になっても日焼け止めもあまり使わずに真っ黒に日焼けをしていました(笑)。新人アナウンサー時代にはスタジオの照明さんからよく怒られ、「将来、絶対にお姉ちゃん後悔するよ」と妹にも口酸っぱく言われていました。

そんな私にとって沖縄は大好きな海の一つ。沖縄に到着した瞬間にTシャツに短パンそしてビーチサンダルに履き替える時の何とも言えない解放感がたまりません。
今回の旅で一番楽しみにしていたのは西表島にあるサンゴのかけらでできているバラス島でのシュノーケリング。バラス島は白い砂浜みたいな小さな無人島でトイレや日除けはもちろんありません。潮の満ち引きや台風によって形が変わるそうです。本当にサンゴだけで出来ていて歩くとシャリシャリという心地よい音がする不思議な島です。裸足ではちょっと歩くのは辛いかもしれません。海が大好きと自称しながらも実は私はダイビングが苦手…。小心者で心配症だからか人智の及ばない海深くに潜るよりも、波に身を任せて海面を漂うシュノーケリングが性に合っているようです。また、沖縄の海の透明度は素晴らしくダイビングでなくとも、海底まで見渡せるのでシュノーケリングで十分満喫できます。バラス島でもクマノミを見つけては追いかけて時間を忘れて母なる海に抱かれて過ごしました。
この島に来たら海と魚と戯れる以外はやることがありません。
逆に言えば何もやらなくてのんびりすればいいのです。介護と仕事の両立…慌ただしく生きてきた私にとって“何もしなくていい”ということは一番の贅沢でありご褒美でした。

母を身近に感じながら…

そして、西表島で一番印象的だったのは“マングローブの森”。
本島や石垣島など沖縄には何度も足を運んでいましたがマングローブの森に行くのは初めてでした。カヌーを漕ぎながら進んでいく亜熱帯ジャングル。目に飛び込んでくるのは今まで見たことのない景色ばかり。森の中は思わず深呼吸をしたくなるほど酸素が濃く、自然のパワーに満ち溢れていて「私はいま生きている」と感じさせてくれました。聞こえてくるのは鳥の鳴き声や風の音、そしてパドルで水を掬う何とも心地よい音。都会では耳障りな機械音を浴びていますが、そんな人工物の全くない大自然の中に身を委ねているとまさに心が洗われていくようでした。

どこにでも行けるということはとても幸せなことです。
私の母が車椅子の生活になったのは今から25年も前。
まだ車椅子用のトイレもほとんどなくバリアフリーという言葉さえ浸透しておらず障がいのある者にとって社会はバリアだらけで本当に生き辛い環境でした。そんな中、私は母を自然の中になるべく連れていくようにしました。梨狩り、ホタル狩り、海や川など。
100%バリアフリーの環境ではない自然の中に敢えて行くことで一歩を踏み出す勇気を母に持って欲しかったのです。その一歩が次の一歩に繋がると信じていました。
ただ今考えると大した場所には連れて行けませんでしたし、もっともっと一緒に行きたい場所がありました。
沖縄の海の碧さは本当に母にも見せたかったです。母が生きている時も、そして母がいなくなった後も、私は常に母を身近に感じながら旅しています。
綺麗な風景や美味しい食べ物、出会った人々など「お母さんに見せたかったな」「お母さんに会わせたかったな」と…。

星になった母

海に癒され迎えた西表島の夜。
人工の明かりが一つもない島の星空は格別でした。都会では街の明かりにその姿がかき消されてしまっていますが、見上げた西表島の空には零れ落ちてきそうなほどの星達が瞬いていました。
何億光年という長い時間を経て夜空を照らす星。私が生まれる遥か遥か昔に生まれた星の輝きを見ているのかと思うと人間の一生なんて本当に短くて、自分はちっぽけな存在だなと痛感しました。
でもちっぽけな存在だからこそ愛おしいのかもしれません。そう言えば母は星が大好きでした。
私が子供の頃、よく夜空を見上げて「あの星はオリオン座。あの星は…」と母が教えてくれたことがありました。
夜空にきらきら輝く星に母の笑顔が重なり涙が溢れて止まりませんでした。
空を見上げる私の頭上に優しく降り注ぐ無数の流れ星。まるで母が髪を撫でてくれているかのようでした。
「お母さんいつまでも私達を見守ってね」流れ星への願いはひとつ…。

命には限りがあるということも身を持って教えてくれた母。そんな母の娘に生まれたことが奇跡であり、また何でも相談できてこうして一緒に旅ができる妹を残してくれたことに感謝です。その妹も今では3人の子供を持つ母親になりました。太陽が輝く昼間でも星はいつも私達の上に存在していると言いますが、星になった母に逢いたくなったら沖縄の西表島を訪れたいと思います。

編集:トランスタイム 細内律子

 
本ページ内掲載の内容は2014年11月現在のものです。

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